天才と錬金術師の共通点

錬金術の歴史を記した本を読むと、いろいろな意味で興味津々たるものがある。
そもそも、黄金を人工的に作ろうと考えるのは、なんたる飛躍であろうか、と言いたいところだが、この点は飛躍でもなんでもない。風が欲しいと思って扇を作ったのと、あまり差はない。黄金の価値を人びとがみとめると同時に、自然発生的にうまれた案であろう。それが人間というものだ。
したがって、錬金思想の起源はおそろしく古いにちがいない。古代のエジプトにおいて、すでに金属の着色メッキの方法の研究がなされていた。これを錬金術と呼ぶのはまちがいだとの説があるが、安価な金属を黄金として通用させようというのだから、狙いはまあ同じことだ。
金そのものを作り出そうという、いわゆる錬金術の発想は紀元前二世紀ごろにあらわれ、四世紀ごろに至って目立つような形となり、その後ずっとつづくのである。
錬金術の実験室には、さまざまなものが持ちこまれた。初歩的ではあるが実証的な科学技術。生物学。四元素説をはじめとする哲学。あらゆる種類の学問や宗教。怪しげな呪術に至るまで考えうるすべてが集中され、こねまわされた。人類史上、最も長期にわたって大量の精神エネルギーが注ぎこまれたのは、錬金術であるといえるかもしれない。
異質な物質どうしの接触があると、アイデアがうまれる。これこそアイデアの本質でもある。錬金術においてその好例を見ることができる。
そのひとつ、「金は地中で成長する」という説など、まことに卓越なものだ。金は地中の樹であり、鉱脈は枝のようなものだというのである。枝を切り取っても幹を枯らさない法、あるいは栽培法を発見すれば、黄金の入手は思いのままになる。
植物学や農学からのアプローチである。現代常識からの批判をべつにすれば、大変な想像力といっていい。しかし、アウグスティヌスという神学者などは「無益で好気的な研究欲のあらわれにすぎぬ」と非難している。一分野の専門家にとって、このようなとらえどころのない考え方は、うさんくさくて面白くないものであったろう。
「賢者の石」という妙な物質を空想したのも錬金術の関係者たちだ。これにふれると、低級な金属が金に変わるというのである。触媒作用の発見者は十九世紀のスウェーデンの化学者ベルセリウスだが、彼の頭の片隅に賢者の石の知識がったにちがいない。これまた偉大な予見である。
その他、錬金術師たちは宇宙の設計図だとか、寓意の詩だとか、精霊の図解だとか、奇術のやり方だとか、各種の副産物をもたらした。どれも、直接にはあまり実用的でないものばかりだ。
また、万物融化液という、なんでもとかしてしまう液があれば金への変成が可能と考え、その開発に熱中した者もある。この研究は十八世紀の中頃までつづいたが、だれかが「そんなものができても入れる容器がないはずだ」と、いじの悪いことを言い出し、いつしか幕となってしまった。

これは私の想像だが、いったい彼ら錬金術師たちが、金の生成についてどれくらい確信を持っていたのか、いささか疑わしい。何世紀にもわたって試みられ、思わしい成果があがらなかったのだから、賢明な人間ならいいかげんであきらめるところである。
あるいは、金の生成など彼らにとっては二の次となってしまい、分野を異にする学問を組合わせ、新説を立てる面白さにとりつかれていたのではないだろうか。どうもそんな気がしてならないのである。
実利が目的なら、こうはならない。金の探鉱法の研究のほうがよっぽどてっとり早い。しかるに、彼らはそうしてない。空理空論にひたる魅力は、実利のごとき比ではない。実利を追うことはだれにでもできるが、空理を楽しむのはある程度以上の頭脳を要する。なんという優越感。
錬金術師たちは、奇妙なことに大弾圧を受けることもなく、意外に安泰だった。自由というか異端というか、いかなる議論も許されていたようだ。その理由はなんであろう。空理空論の徒と見破られ、無害のレッテルをはられたためであろうか。支配者にとっての高級雑談の相手として、適当に刺激的で新鮮で、ちょうどよかったためであろうか。
それとも、錬金術師のほうが一枚うえで、危険視される一歩手前で巧妙にふみとどまるこつを身につけていたのかもしれない。彼らの書いた寓意の詩など、あいまいとしていて突っつきようのないのが多い。

なぜ錬金術についての紹介やら私見などを書いてきたかというと、SFとどこか共通するものがあるような気がしてならないからである。
その第一。学問の専門化が進むにつれ、各分野のあいだの垣根がしだいに高くなりつつあるが、それがSFでは無視されている点である。
吸血鬼伝説と血液銀行を組合わせたSFはよくある。電子計算機に呪文を作成させる話もある。マルサス人口論と犯罪シンジケートの問題を組合わせ、おそるべき人口処理の物語となる場合もある。
SFの大部分はこのようにして発想されている。SFに限らず、アイデアとはこのようなものであり、組合わせるものがかけはなれていればいるほど、飛躍の効果は大きいのである。
錬金術師たちは、天文学だの、薬草だの、呪文だのを手当りしだいに組合わせて新説を立てていた。よくいえば自由奔放、悪くいえば盲蛇におじずである。この二つの言葉、結局は同じことではないだろうか。
共通点の第二、実利を圧倒する奇妙な魅力の点である。錬金術師たちにとっては、その知識と熱中さとを有効に使えば、もっと容易に利益をあげえたにちがいない。
現代SFの開祖であるアメリカの作家ガーンズバックは、一九一一年に「ラルフ」という作品を書いた。そのなかには、自動販売機、蛍光灯、金属箔包装、翻訳機、壁面発光、マイクロフィルム睡眠学習などが登場する。テレビジョンという語を最初に用いたのも彼であり、レーザーは第二次世界大戦で出現したそれと同じ原理で空想している。レイヨンの描写は、特許権所有者ではないかと思えるほどだとの評がある。いずれも、当時は世に影すらなかったものばかりだ。
ガーンズバックがもし発明家をこころざしていたら、巨万の富を築いていたかもしれない。しかし、そうなるのに必要ななにかが欠けていたためかもしれない。あるいは、現実の利益を放棄したから空想の翼がはばたけたのかもしれない。ここがまた微妙なところだが、つまり空想の魅力にとりつかれていたのである。なお、彼は最近になって再評価され本の売行きはいいようだが、存命中は雑誌の運営で債権者に追われどおしであった。
SF作家のなかには、発明家になるべきなのに道を誤ったのではないかと思えるのが多い。私自身もまた、発明家になっていれば今ごろ収益のあがる特許権をいくつか持つに至っているのではないかの考えることがある。しかし、その道は選ばなかったろう。それにはかんじんなものが欠けているし、新しい発想によるあやしげな作品を書きあげた時の、形容しがたい満足感の味をしめてしまったからである。
だから推察するのである。錬金術師も金への変成の奇想天外な新説を思いついた時は、会心の笑いを浮かべたにちがいない。現実のひとかけらの黄金など、どうでもいいことなのだ。
もし平凡な支配者がいて、錬金術師たちを実務部門に配置転換していたら、彼らはなにひとつできないだろう。もちろん卓越した説も出ない。他から動かされたら、そのとたんに空想力は消えうせ、あわれな状態におちいるにちがいない。飛躍した空想とはそういうものである。
共通点の第三を論じてみる。一種の治外法権的な安全地帯についてである。錬金術師たちはその場所にいた。
おそらく、彼らは教会や支配者にとっても、危険きわまりない説を口にしたにちがいない。宇宙の組織図とか、ビンのなかで人間を発生させる法などがそれである。しかし、錬金術師狩りはおこなわれなかった。
「いまに本当に金を作るかもしれない」という世の期待があったかもしれないが、「錬金術とはああいうものさ」ということで見のがされていたわけであろう。論難しようにも、各分野をわける垣根の上のネコのようなものだったから、手も出しにくかった。
ここにひとつの歴史がある。ケプラーは望遠鏡で天体を眺め、太陽系の惑星は太陽を中心とした軌道上を進行していると確認した。一六〇九年にそれを印刷物として刊行している。
しかし、ケプラー神秘主義を看板とする占星術師。音楽的調和のある宇宙論の確立に熱中していた。こんな発見は、大理論構築のための一副産物にすぎない。そこで、望遠鏡をもらったお礼にと、これを友人のガリレイに知らせた。
ガリレイはそれにもとづき、その二七年後に「新天文対話」という本を刊行し、地動説をとなえた。これが問題となり、ガリレイは宗教裁判にひっかけられ、さんざんな目にあわされた。
ケプラーは栄光をガリレイにゆずった形だが、迫害のほうもまぬかれた。安全地帯にいたものと、そのそとにいた者との差である。どちらが賢明かは、なんともいえない。科学史的には、ケプラーは惜しいことに神秘論にとりつかれていたとの評になるわけだが、ケプラー自身は惜しいなどとは考えもしなったろう。

SF作家のアシモフは、独創力のない人がアイデア発生に協力する場合、なにをしたらいいかを書いている。その答えは許諾である。批判でも賛成でも激励でもないのだ。好きなようにさせておくのが一番だというのである。錬金術師たちのような状態であろう。実利だとか、栄光だとか、宗教裁判だとか、世俗的なものが加わると、ろくなことにならない。
最近は飛躍的な思考が求められているらしく、想像開発ばやりで、その原理などを書いた本がたくさんでている。
じつは私も、そんな便利な方法があれば身につけたいものだと思い、時には買ってのぞくことがある。しかし、たいていがっかりする。条件さえととのえば、想像力はいとも簡単に出てくるように書いてあるのだ。
私はSFを書くため、死ぬ思いで四苦八苦し、そのアイデアを得ているのだが、そんな自分がばかに思えてきてしまうのである。そうは認めたくないため、著者の説に反抗してみる。想像力とは、条件とか統計とか教育法とかの枠外にあるのではないのか、と。
エジソンというと、人は発明王と規定し、名案を雲の如くに湧かせた人物と思いこんでいる。エジソンがいくら「発明は一パーセントの才能と、九九パーセントの努力により成る」と力説しても、そこは軽く見すごされてしまう。精神的苦行の度合を他人に伝達する方法がないうちは、想像力の分析は不可能ではないだろうか。
飛躍とは解明できない衝動かもしれない。新説を得たい、そのためには他のことなどはどうでもいい、そこに喜びを見出すことである。錬金術師以来、いやもっと古代から、人類の心の底を流れつづけ、安全地帯でふきあげつづけているのである。それがあとでどう現実に活用されるか、あるいは笑いものにされるかは別問題だ。