都会の安易さと女性化

先日、皇太子殿下に女児がおうまれになった。それについて女性週刊誌から私のところに電話があり「二十年後に、どのようなかたに成長なさるとお思いですか」との質問である。週刊誌というのは、なんでも記事の種にする。
そこで私は答えた。
「日本古来の伝統をうけつぎ、気高さと上品さと微妙さの象徴のようなかたになっていただきたい」
私は書くものに似ず、えらく保守的なので、むこうは意外そうだった。「ミニスカートでゴーゴーを」といった答を期待していたかもしれない。おあいにくさまである。
混乱の世の中を右往左往、頭を使わず流行を追っかけまわすだけの人間は、ほっておいても量産される。そんな世の中だからこそ、流行を超越して上品さをたもつかたが必要なのである。早くいえば、ミニでゴーゴーなんてことは、その気になればどんな女性でも簡単にできることなので。睡眠薬遊びなんてのは、薬を口にほうりこみさえすればいい。犬やネコにだってできることだ。
しかし、上品さとなると、そうはいかない。身につけるのに、十年はかかるのではないだろうか。わざとらしさのない内面からにじみでる上品さとなると、二十年でも身につかないかもしれない。だからこそ貴重なのだ。そのような女性こそすばらしいのである。
ざっくばらんな、いわゆる人間味ある話し方も悪くないと思う。しかし、上品な言葉づかいができた上での話だろう。ざっくばらんしかできないというのは、なさけないことだ。そんなタレントがふえている。

安易へ安易へと道をたどっている。テレビも週刊誌も、低級な女性への迎合である。迎合によって利益を上げようというのだ。そして、それが成果をあげているということは、迎合されるとあいなく喜ぶ存在があるからであろう。こういう傾向のなかでこそ自制心が必要なのだが、そんな主張はあまりない。自制心を身につけるには十年かかるが、失うのは一日でたりる。みな目前の安易さのほうが好きなのである。
欧州旅行をした女性のなかには「イタリーの男性にくどかれた」と、とくいがる人が多い。厳格なカトリックの国で、良家の子女はひとり歩きしない国柄である。くどかれたとは、娼婦あつかいされたとの意味。単純でなさけない図である。よき伝統をうけつぎ次代にもたらすのが女性の役目と思っていたが、どうやら、昨今は女性が先に立って伝統をぶちこわしている。こわしたあとになにかを築くのならまだしもだが、そうでもないのだ。世界じゅうの安易さを集めてつぎはぎしたものだけが残る。

女性の職場への進出はいいことである。男性との平等の要求もいいことである。しかし、平等の要求をするからには「女だから」との弁は口にすべきではない。はたしてそうなっているであろうか。権利は主張するが、義務は知らん顔。こういう矛盾が気にならないのは困るのである。
お米だの牛乳だのの値上げ反対はいいことである。しかし、農家や畜産業の収入増加はどうすべきかとなると、知らん顔。自分の家庭の収入だけふえればよく、他人は知ったことかとの冷酷ムード。あげくのはて「それは政治家の考えることだ」で終り。選挙権を返上したらいいのじゃないかしらん。深く考えず、自分につごうのいい主張だけを叫んでいる感じである。
ということを女性の欠点としてとりあげたが、考えてみると、女性にかぎらず、いまや日本じゅうがそんな状態のようである。女性化傾向がひろまりつつあるのだ。利益とセンチメンタリズムだけで動いている。マスコミが女性を甘やかすから、男だってその仲間入りをしたくなるのだ。女性がしっかりし、甘やかしても企業や政党の手にはのりませんよと、はねつける姿勢を示すべきだろう。