デジタル時計とアナログ時計

街を歩いていると、どうも面白くないものが目にとまる。それは時計である。銀行などのビルの外側についている、数字が電光で表示される仕掛けのものである。内心、不便なものを作ったな、と感じているのは私だけではあるまい。
すべての人はその数字を眺め、つぎに頭のなかで時計の針を思い浮かべ、はじめて時刻を認識しているにちがいない。ふつうの時計にくらべて、よけいな手数がかかっているわけである。
ひとに時間をたずねたとき、何時何分と数で教えられるよりも、時計を見せてもらったほうが、はるかにピンとくる。答えだけでは満足せず、わざわざのぞきこもうとする人も多い。時間の単位が十進法になっているのならべつだが、何時まであと何分あるか、ということは、時計の針を見ながらのほうが、はるかに計算しやすい。長針だと三十分と、まったく頭を使わくてすむ。
人類が時計を開発したことは、画期的な事件である。時間という抽象がかったわくりにくいものを、針の角度という視覚的な形に変化させるのに成功した点である。それによって、日常の生活が区分しやすくなったわけである。

人間が時間を感じるのは五感ではなく、まだはっきりしていないらしい。時間というものが実にとらえにくい存在であることは時計なしで半日もすごしてみるとすぐわかる。テレビに出てみてもよくわかる。「あと五分」「あと三分」などと書いた紙片を目の前でふりまわされても、それがどのくらいなのか、実感がわかない。腕時計をのぞくわけにもいかず、その度に冷汗をながす。
したがって、時を数字であらわそうと試みるのは、逆行としか思えない。そのうちこの調子だと、液が上下する寒暖計にかわって、数字があらわれる寒暖計も作られることと思われる。そして、これもまた実感のともなわない困った装置となるだろう。
困ったというのは、不便という点ばかりではなく、このような不便な物を作り出して、得意になってる頭についてでもある。世の中には変わった物を作り出すのに急である。まあ、婦人帽のたぐいならそれでいいのだが、新奇な物、かならずしも一段と進歩した物ではないのである。
コップや電気スタンドなど、かっこうはよくてもすぐに倒れるものが多い。吸いかけのタバコを乗せられない灰皿もある。優美な曲線の椅子もいいが、坐り疲れて姿勢を変えようにも身動きのできないのでは困る。踏台につかえないのは仕方ないにしても、人間はくつろぐ時には椅子の上で、各人各様じつに変わった姿勢をとりたがるものである。