漫画・フクちゃん論

1955年にCARTOON TREASURYというアメリカ本が出版されている。書名の意味は<漫画の宝庫>で、世界じゅうの漫画の傑作をたくさんあつめたアンソロジーである。日本からは「フクちゃん」が三編収録されている。
外国漫画のなかにまざっている「フクちゃん」を、見て気がつくことは、この笑いには禅のムードがある点だ。といっても、私は禅のなんたるかを知らず、むかし「フクちゃん」で禅を意識したこともない。
しかし、外国人の頭にあるゼンについてのイメージは、なんとか想像がつくようなきもする。つまり「フクちゃん」の笑いなのである。いわくいいがたし、端倪すべからざる、分析不能されど笑いという効果を歴然と示している。
この米国版のアンソロジーで「フクちゃん」を見て、ゼンへの興味を持ちはじめた外国人もかなりあるのではないだろうか。隆一先生には一度しかお目にかかったことがないが、第一印象は、やはり禅僧であった。しかし、これは私の先入観のせいかもしれぬ。
アメリカの漫画の多くは、未来においてコンピューターがさらに発達すれば、それで創れないこともないように思える。しかし、隆一漫画はいかなる超コンピューターをもってしても不可能にちがいない。
「フクちゃん」の四駒のうち、あとの二駒を手で隠し、結末を想像できるかというと、まるでできない。手で隠すのを最後の一駒だけにしてみても、やっぱり同様。水平思考を身につける頭の体操としてすすめたいところだが、やめたほうがいい。劣等感にとらわれるばっかりである。
着眼と風格、長期にわたる安定感、余裕があり余分なものがなく、さりげなさとむりのなさ、極限の袋小路に迷いこまず、ムードの泥沼にもふみこまない。熱狂せずニヒルのごとくでありながら、あたたかみがある。このつきざる泉を一口で形容するとなると、禅としか呼びようがないのではなかろうか。すなわち論評不可能なのである。