アメリカ人の日本人女性への視点

「なんだか世の中に美人が少なくなったようだなあ。美少女なんてのも、むかしはもっとたくさんいたような気がするが、このごろ、とんとお目にかからない」
という声を、よく耳にする。たしかに、そういえばそうである。いかに社会の変化が急激でも、人間の顔までそう急に変わるわけがない。となると、私の精神が老化し、美人への関心が薄くなったのか。いやいや、こう感じているのは、私だけではないのである。
といっても、美人が絶滅したわけではない。小松左京の案内で、京都の祇園に行ったとき、目をみはるようにきれいな芸者さんがいた。二十歳くらいだが、形容しがたいムードをまきちらし、おどりを見せてくれた。
かくのごとく、いるにはいるのだが、そういうのにお目にかかる率が、むかしにくらべてぐっと減っている。いったい、この原因はどこにあるのだろうか。

といった問題をこのあいだから考察していたわけだが、ある日、やっと思い当たった。すなわち、ミニ・スカートのせいである。あの流行以来、このようなことになったのだ。
それ以前における男性は、道を歩いて女性とすれちがうと「いまの女は美人だったなあ」と内心つぶやいていたものだ。もちろん「たいした美人じゃなかったな」と考えることもある。また、なにも路上に限ることもない。電車内においても、むかい側の席の女をちらとながめて、同様の感想をいだいたものだ。
しかるに、ミニ時代になってからは、それが一変した。「すごいミニだったなあ」であり「たいしてミニじゃなかったな」であるという感想になった。車内においても同様。つまり、顔のほうを見なくなってしまったのである。
女性の顔を、男性は見なくなってしまったのである。美人はむかしと同じく一定の率で存在はしているのだが、ミニに気をとられ、顔のほうにまで注意が及ばなくなってしまった。

もしトップレス時代になったら、男はだれの女の顔も見なくなり、美人という語が消えてしまうかもしれない。江戸小話。夜そとから帰ってきた若者がみなに「いまそこで、若い女のはだかまいりとすれちがった」と言う。みなが「で、美人だったか」と聞くと、それに答えて「顔までは見なかった」
似たようなのは、アメリカの漫画にもある。作りかけていた料理の味つけに失敗してしまった夫人。そこへ亭主の帰宅の声。夫人は大急ぎで裸になり「おかえりなさい」と迎えたのである。亭主はそれに気をとられ、味覚のほうがごまかされてしまう。
というようなしだいで、ミニの流行によってとくをしているのは不美人、損をしているのは美人といえそうだ。大きなサングラスだの、キラキラピカピカの金色装身具の流行も、それらで損しているのは美人である。男の視線が分散してしまう。美醜の平等化でけっこうなことなのかもしれないが、どうもあじけない傾向である。
しかし、不美人はいつまでもミニでいてほしい。男性としては、どこを鑑賞していいのか困ってしまうのである。

たいぶ以前のことになるが、ニューヨークで世界博というのが開催された。万国博のごときもよおしである。その時の日本館は、思い出しても悲しくなるような哀れなできばえであった。
しかるに、アメリカ人のあいだでは、さして悪評ではなかった。これまた不可解でしようがなかったが、やがてわかった。日本館のホステスたちの和服のおかげである。その美しさに、アメリカ人たちは気をとられ、展示物のつまらなさに目が行かなかった。人間の視点は、まったく主催者の予想しなかったほうにむけられることが多い。
和服のどこがそんなにいいのかについて、アメリカ人の意見はこうである。中近東や東南アジアの女性の服には、どこか崩れた淫蕩な感じがあるが、和服にはそれがなく、きよらかな清潔さがある、と。なるほど、そういえばそうだなと私は思った。