戦時中の澄んだ時代

昭和十八年、私は東京の高等学校に入学した。もちろん旧制である。数え年で十八歳だから、満で十六歳だったことになる。戦争のさなかでもあった。
この頃のことを、暗く重苦しい時代、と片づけている人が多いようだが、私にとってはそうでなかった。私のみならず同年配のものは、おそらく同じような記憶を持っているのではないだろうか。
明るく、乾燥した毎日であった。台風の夜も、降りやまぬ梅雨もあったはずだが、思い出す日々は一年じゅうすべて、秋晴れの日だったような気がしてならない。
太宰治の小説「右大臣実朝」のなかに、滅亡近い平家はその故に明るい、という形容があるが、真理のようだ。日本が破局に近づいていたその頃も、やはり明るさがみなぎっていた。
明るい希望などという言葉は嘘で、希望は期待と焦燥で息苦しいもの、薄暗い暁に似ている。前途が悲観的な時こそ、みながそれに触れまいとして、澄んだ明るさを示す。ちょうど、美しい夕焼けの空。
ラジオはニュースと、そらぞらしい訓話と、音楽を少し放送するだけ。娯楽らしいものはなに一つなかったが、だれも退屈を感じなかったようだ。私は射撃部に入り、実弾を的にうちこむことを面白がっていた。もっとも、射撃は中学二年生ごろからやっていた。運動神経の鈍い、怠惰な学生が教練の点をよくするためには、ほかに方法がなかったからである。
だが、その頃の銃は犯罪めいた匂いを、決してただよわせてはいなかった。柔道や蹴球のできない情ない少年たちの、唯一オモチャのようなものだった。
高校二年の時、勤労動員になった。亀有にある日立製作所である。溶けた鉄がそばを流れ、重い部品が頭上を動いていたが、だれもけがをしなかった。
工場には、やはり動員された女学生たちがたくさんいた。下町の女学校で、なかには、どことなくいきな女の子も何人かいた。ここで、淡い恋心が・・・とでもなればいいのだろうが、それは戦後の小説の産物。実際のところは、どこにおいても問題はなにも起こらなかった。

昨今の常識でいえば、未来の閉ざされた社会であり、また、教師たちの監督の行き届かない状態なのだから、なにかがおこってしかるべきなのに、すべてはひっそりと静かだった。
理屈をつければ、食糧事情による栄養の関係、とでもなるのだろうが、やはり、あまりに透明な時代だったせいにちがいない。
食糧どころか物資はなにもなく、身辺を飾ろうなどと考えもしなかった。しかし、清潔ではあった。虚栄心ゼロのあのすがすがしさも、鮮やかな記憶である。
工場へ出かける時には、本を一冊ずつ持って行った。家の本棚に並んでいた文学全集をはしから読んでいった。
いま考えるとなぜだかわからないほど、小説の世界にすなおに入って行けた。ゲーテも読んだが、「椿姫」や「金色夜叉」も読んだ。時間は限りなくあるように思えた。鴎外の「澁江抽斎」は娯楽性の少ないので有名な作品なのだそうだが、それが無条件で面白かった。気の散ることがなく、本に没入できたせいなのだろうか。
もちろん、本ばかり読んでいたわけではなく、帰りには友人たちと、よく浅草へ寄って映画を見た。浅草もやはり明るく、崩れた暗い影など、どこを探しても見出せなかった。
上野の山の桜も見た、人影のまったくない上野の広い山で、桃色の綿菓子のように、ただ桜だけが音もなく咲き誇っているのは、忘れることのできない光景であった。ひっそりと静かで、人声どころか、鳥の声ひとつもしない。道には紙屑もごみもなく、春だというのに、空はやけに青く澄んでいた。
ゆっくりと一時間ほど、あたりを歩きまわったのだが、だれにも出会わなかった。ほんの少しだが、妖気めいた美しさを感じた。
たしかに、いま考えると、あの頃は特異な一年だった。もはや、だれも、二度と味わうことはできないにちがいない。

高校は二年で卒業となり、大学に入った年の八月に終戦となった。同時に、澄んだ明るさの時代は終わり、薄よごれた湿気を含んだ時代が始まったようである。
どんよりとした曇天の日々がつづきはじめた。
そして現在あらためて四囲を眺めると、いつのまにか、じめじめとしたごみっぽさは一層ひどくなっている。戦争という狂気の捨て場を失い、内にこもりでもしたかのように。
しかし、どちらが変則でむなしいのかの判断は、だれに正しく下すことができよう。また、私自身がとしをとったため、そう考えるのかもしれない。
ただ、私の青春と密着したあの時代が、望遠鏡をさかさにのぞいた眺めのように、遠くなつかしく、小さく、静かに、頭の片隅に残っていることは事実である。